緊急事態宣言で会えない母|特養での日々

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医師に「覚悟してください」と言われた母。その後、しばらく入院したのちに、特別養護老人ホーム特養での日々を送りました。

特養への準備

特養に入るときには今までの施設より準備がたくさん必要でした。母が使い慣れたもの、ゴミ箱やテレビ、タオルなどは実家にずっとあるものを用意しました。それだけでも気持ちが違うかと思ったのです。

でも、母に言っても「あぁ」というだけでした。それが母の癒しになっていたかどうかは、わからないので自己満足かもしれません。

利用した特養はタンスが必要ということでした。古くからあるタンスは引き出しの開け閉めが重く、運ぶのも重かったのでホームセンターで新しく用意しました。

電話のかかってくる日々

病院を早めに出たのには「病院だと面会禁止だから面会のできる特養へ」という理由もありました。母は意地っ張りだけど、さみしがりだから。でも、2週間ほどして、緊急事態宣言がでてしまい母に会えなくなってしまいました。

会えない状態は、亡くなる当日まで続き、母とのコミュニケーションは電話だけでした。


日に何度も電話がかかってきました。うちだけでなく、叔母のところには、もっとかけていたようです。

そのうち、

母

なんど、かけてもでない!

やっと出た!

と怒って電話してくるようになりました。意地悪されていると思ったようです。

そこで、施設の方に確認してもらったら、何度も携帯電話のボタンを押し間違っているようでした。

特養で弱っていく母

ひとり暮らしの頃から、母からリモコンが壊れた壊れたと呼ばれることが多いのが不思議でした。施設に入ってからも電池を差し入れていました。

私は、施設の方に教えていただくまで「力が弱くなっている」ことを思いつきませんでした。自分の中の母のイメージが変わっていなかったのですね。

なるほど、と、大きなボタンのリモコンを買って差し入れました。

でも、母は弱ってきていました。いくらイメージの中では元気でも、確実に。会わなくても、話す口調やリモコンが使えなくなってきていることから察することができました。

施設からの電話

お墓のことが決まって、1週間ほど経った頃でしょうか、朝に晩にかかってきていた母からの電話が数日ありませんでした。

私はのんきに、”施設での暮らしが落ち着いて不具合が少なくなったんだろう”と思って過ごしていました。

そして、ある日曜日の午前中に施設から電話がありました。

「急いで、おいでください」

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