先日NHKの「朝イチ」で、「“毒親”と離れてわかったこと 当事者たちのその後」という特集がありました。その中に出ていた方たちは、まだ親を送っていない世代です。母を送った私は「きっと、この先も心情は変化していくのだろう」この特集を見ながら、思いました。
私の母は、友人たちや娘たちに言わせれば毒親です。ちょうど、ブログも母を送ったあたりになりました。以前も少し書いたのですが、この記事では、毒親と言われる母を送った私の心情の変化について、まとめます。
今、親との関係に悩んでいるかたが、先が見通せる気持ちになれればいいなと思います。
親を送ると、種明かしができることがある
人が亡くなると、いろいろなことが起きます。見えなかった問題の種明かしもされかもしれません。
たぶん、それは親戚や友人知人と連絡を取り合い、集まることで生まれるものなのでしょう。それが、お葬式をする意味なのかもしれないと、母を送ってみて思うようになりました。
私の場合にも、コロナで集まる人は少なかったですが、お葬式で、母が言わなかったこと、見えなかったことが、他の人から聞いた母の話から、だんだんとわかってきました。
現在進行形でなければ、母の心情も俯瞰できる
親との関係は、生まれてから、どちらかが亡くなるまで現在進行形です。
とくに母娘に多いのかもしれませんが、自分の感情が動く発言をされた後は冷静でいることは難しいものです。少なくとも私はそうでした。
売り言葉に買い言葉、言わなくてもいいことまで言って傷つけあうことが、会うたびにありました。
母を送ってから母のことを考えるとき、実は今でも感情的な反応がおきています。でも、以前よりも冷静に、その時の母の気持ちを俯瞰できるようになりました。
母は毒親だったのか
私に「お母さんは毒親だったね」という人がいます。そうすると、なんだかドキッとします。違和感があります。
確かに、母と私にはいろいろなことがありました。ひどく傷つけられたことも何度もあったし、思ったように進めなかったときもあります。
母が亡くなって、2年。私なりに、いろいろ考えてきました。て思うのは、母は少女のように頑なで殻にこもった人物ということです。
少なくとも、母となろうとはしなかった。母として居ようと思わなかった。
ただ自分が他人にどう見えるかが気になりすぎて、娘の気持ちにまで気が回らなかった。プライドのため、弱みを見せらせなかった。それだけ、母の中には嵐があったのかなと思います。
母はパーキンソン病でした
前提として、亡くなる前20年程は、母にはパーキンソン病の症状が出ていたと思います。それを隠そうとして無理をして、意地を張ったのでしょう。
ゆっくりと症状が現れるのがパーキンソン病の特徴です。自分の症状を受け入れられなくて、どんどんうまくいかず、母の中で嵐が強くなっていたのでしょう。
母の友人たちが教えてくれたこと
母が亡くなって、母の友人に連絡を取りました。
その方たちが私に教えてくれたのは、小さかった私を連れて、母が友人に会いに来た時の話でした。
母は私にきれいなドレスを着せて、会いに来たそうです。そして、私の自慢をしたそうです。
そんなこともあった。すくなくとも、大切には思っていたのだと思います。それは、お人形をかわいがる気持ちに似たものだとしても、愛ではあったのだと思います。
私の友人が教えてくれたこと
これは、以前もブログに書いた話です。このブログを書くようになって「私が大変そうだから、話を聞いてあげて」と、私の友人の母を通じて、友人に話していたと教えてもらいました。
それも、自分では愛を示すことはあきらめた母の愛だったのだと思います。
理不尽に思えた母の態度がしめすもの
介護や入院のとき、母は「あなたにできるはずがない」と何度も言いました。そのときには、私のことを蔑んだ言葉に感じ、腹が立った。けれど、それは母なりに、私に苦労をかけまいとする言葉だったのかもしれません。
母を送ってから思うこと
母を送って、私が母子関係で苦労したという話をするようになって、母娘関係に苦労している人が多いことを知りました。
もし人間が何かを学びに生まれてくるのなら、少なくとも、私の場合は母娘関係だったのだと思います。そして、たぶん学びきれていないので、また学ぶ機会を持つのでしょう。
母と出会ったことは、私の人生にとって大切なことだったのです。
うまくできないこともある
もともと私は完璧主義なところがあります。母とのかかわりで悩んだのも、理想的な親子関係がつくれない自分の不完全さが、いたたまれなかったからだと思います。
でも、私は母との関係の中で「うまくできないこともある」と学び、腑に落ちました。それは、私にとっては学びだったのです。